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極夜・絶望からの生還
満州 ~ シベリア16年 三村節
第一章 満州の天地
故郷を発って
1930年代(昭和の初期)の初め、経済恐慌の吹きすさぶ日本を脱出し、新天地を求めた人々は、当時の国策と伝われた満州への武装移民、満州開拓青少年義勇軍に参加し、あるいは、一旗揚げを目指す商人や新生満州国の官公吏志望者などが、続々と満蒙各地に渡って行った。
農家の二男であった私もその一人として、何のためらいもなく、あたかも隣村へ出掛けるような気軽さで渡満した。満18歳の春である。
水戸の歩兵第2連隊は中国各地で転戦し、市民の大歓迎を受けて凱旋した(?)あと再び動員令により満州の若江に移駐した。
僻遠のこの地にも営外居住将校の官舎が建てられ、それぞれの家族が呼び寄せられることになった。
当時、准尉の長州留之介に嫁いだ姉のきょは渡満に際し、生後三ヶ月の長女和江を伴い、また、従兄園部豊三の妻・榮およびその子女、それに付き添って伯父峯次郎が同行した。それがたまたま私の就職の時期と一致したためその一行に加わり、合わせて7人の渡満グループとなった。
出発の当日、上野駅まで送ってきた父は、私たち姉第が親元を離れてゆく初めての現実に直面した別れ際、「せっかく育てたと思ったら、こうしてみんな行ってしまうのか」と涙を流した。
あの厳格峻厳であった父が涙を見せるとは意外であった。物心ついてこの日まで、父の涙を一度も見たことが無かったのである。ただ厳しいだけと思った父への感情は誤りであったのだ。親心とはこういうものなのだろうか?
急行列車は下関へ向けて発車したが、涙にゆがんだ父の顔がいつまでも目の中に残って離れない。私は意外な父の心中を知ったとき目頭が熱くなり、しばし呆然と車窓の風景を見送った。これまで、密かな親心を知らず、自由気侭に過ごしてきたことに思いを馳せる。
生まれて今日まで、計り知れない養育の労苦を考えさせられた。そして今、その親元を去ってゆく。やがてほかの兄弟たちも離れてゆく時が必ずやって来るであろう。
子を手離す複雑な悲しみを初めて迎えた父母の心境を際するとき、「山より高い父の恩、海より深い母の愛」の訓えがまさしく実感となって心に迫ってきた。以来、両親への敬愛の念は強く意識付けられることになった。
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