Форум кафедры иностранных языков и перевода УрФУ

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#1 2017-01-31 19:14:22

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Перевод с японского. Публицистика.

はじめに

ボリス・カラエフ先生には、エカテリンブルグにあるウラル連邦大学で初めてお会いした。背の高い、ひげの立派な方であるというのが第一印象である。本当に身についた日本語で物静かに話をされるカラエフ先生は、その人生において、人には言えない多くの経験を、試練を経た方であることを感じた。父の仕事の関係でロシアから日本に渡り、そして中国にわたり、太平洋戦争の終戦を迎えられた。先生は激動の歴史の中を行き抜かれた方であるが、与えられたその時、その場所において、下心無く全力で取り組まれたことがこの自叙伝に記述されている。

横浜在住の時代は日本人学校で学び、また中国に移住しても日本人学校に通われていた。記憶力の素晴らしさも、目の前の現実をしっかり自分の目で見ようという心がけ結果生じるものであろう。日本人の中に深く溶け込まれていたことの証として、戦後中国での日本人学校の同窓会に自ら出席し、皆と和しておられたことが印象に残っている。戦後、ロシアに戻られた後も、ロシアと日本の絆を強くするため、大学で日本語を教えるために自ら教科書を作り、学生に日本のことを様々な形で紹介してくださっていた。私はそのような状況をしり、日本人の戦争孤児ニーナ・ポリャンスカヤを育ててくれたエカテリンブルグ市民への御礼もかねて、日本語の様々のジャンルの文献を約十年間で八百冊近くウラル連邦大学に寄贈したのだが、その窓口をカラエフ先生が引き受けてくださっていた。

カラエフ先生が如何に深く日本とロシアの有効関係を望んでおられたかは、この自叙伝の中にも記載され、その実現にはどのような方策が必要かも明記されている。このことに目覚めた両国の関係者が連絡をとりそれぞれに小さなことから着実に行っていくことが大切である。

公益財団法人 登戸学寮前寮長                副島 浩

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